大阪高等裁判所 昭和24年(ツ)8号 判決 1949年5月02日
上告人 控訴人・被申請人・申請人 小川菊藏
訴訟代理人 関口緝
被上告人 被控訴人・申請人・被申請人 岩崎精一
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
本件上告理由は添付の別紙記載のとおりであつて、これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。
第一点について
昭和二十二年法律第二四〇号改正農地調整法附則第三條の規定によると、市町村農地委員会は同條に定める要件を備えた農地について賃借権を設定すべき旨の裁定をすることができるとともにその裁定を求める申請が右の要件を備えないときはこれを却下することができることが明かである。そして原判決はその掲ける争のない事実と弁論の全趣旨とを合せて、昭和二十三年四月八日育波村農地委員会がした裁定は被上告人が本件農地について耕作権を有する旨記載してあるが、上告人の右農地について賃借権を設定すべき旨の申請を却下したものと解釈したものであつて右のように解釈したのは相当である。そうすると単に上告人及び被上告人間の賃借権がなお存続しているかどうかの争について上告人が賃借権を有していないことを裁定したものではないから、右裁定が争ある賃借権の存否について裁定したものであることを前提とする所論は採用できない。
第二点について
改正農地調整法附則第三條第三項の規定による市町村農地委員会の裁定に対しては同條第五項の規定による不服申立方法が認められているから右裁定はその争訟手続によつて始めて取り消されるべきものであり、裁定の確定した後は、その手続が犯罪行為によつて行われたような重大な欠点のある場合を除いて、市町村農地委員会自ら職権によつて裁定を取り消すことができないものといわなければならないこと所論のとおりである。従つて育波村農地委員会が昭和二十三年二月二十三日した本件農地について上告人に賃借権を設定すべき旨の裁定を同年四月八日に至り自ら職権で取り消したのは違法である。しかしながら同委員会が右四月八日になした裁定は違法であるが全然同委員会の権限外の行為とはいえないから当然無効のものでなく、右裁定に対し上告人が訴願訴訟を提起したことは上告人が原審において主張立証しなかつたところであるから、後の裁定は前の裁定を変更する効果を発生するものであつて、原判決が上告人に賃借権を設定すべき旨の申請を却下する裁定があつたことを以て仮処分を取り消すべき事情の変更があつたものと認めたのを不当とすることはできない。所論は理由がない。
第三点について
原判決は本件仮処分は育波村農地委員会が昭和二十三年二月二十三日なした本件農地について上告人に賃借権を設定すべき旨の裁定に基いてなされたものであるが、同委員会が同年四月八日右裁定を取り消し上告人の申請を却下する旨の裁定をなしたことによつて仮処分を取り消すべき事情の変更があつたものと認定したものであつて、第二点において説明したとおり後の裁定は前の裁定を変更する効果を発生するものであるから右のように判断したのは相当である。論旨は理由がない。
第四点について
乙第一、二号証は被上告人において上告人が任意に被上告人に本件農地を返したと主張する昭和二十年十一月上旬当時はもちろんその後も引続き上告人においてこれを耕作していたものであるが、被上告人はその後昭和二十一年六月頃甘言をもつて不当にこれを上告人から取り上げたものであるとの育波村農地委員会に対する上告人の賃借権設定に関する裁定申請の理由換言すれば上告人が裁定により設定を受けた賃借権(本件仮処分により保全せんとする権利)を疎明するため提出したものであることは上告人の原審における昭和二十三年十二月一日附準備書面(同年同月二日の原審口頭弁論において陳述)により明かである。それで右乙号各証は何等同年四月八日の同農地委員会の再度の裁定のあつたこと、及び論旨第二点について説明したような右再度の裁定の効力を妨げるものではない。従つて原審が右乙号各証を原判決に掲示せず且つその取捨について言及しなかつたことは原判決の結論に少しも影響を及ぼさないからこれをもつて原判決に審理を盡さない違法があるとはいえない。論旨は失当である。
そこで民事訴訟法第三九六條第三八四條第九五條第八九條を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判長判事 石神武藏 判事 大島京一郎 判事 熊野啓五郎)
上告理由書
第一点原審は兵庫縣津名郡育波村農地委員会が、被控訴人所有の同郡同村大字黒谷字堂の下三〇一番所在田一畝十九歩に付、控訴人が賃借権を有するや否やを裁定する権限あることは農地調整法第十五條第二項第一号及び同法附則第三條の規定に依り明であると前提し該前提に基き同農地委員会が右田地に付控訴人に賃借権なしと裁定したのは当然であつて然も此の裁定は上級の行政廰又は裁判所に於て取消さるる虞がないから仮処分決定後の事情変更なりと断定した。
然れども市町村農地委員会は農地調整法第十九條第二項第一号及び同法附則第三條第三項により昭和二十年十一月二十三日現在に於ける農地の賃借人で同日以後第九條第三項の改正規定施行の日前に賃貸借の解除解約又は更新拒絶によつて当該農地の賃借人でなくなつたものが市町村農地委員会の承認を受け其の当時の所有者又は其の承継人に対し当該農地に付賃貸借契約を締結することに関し協議を求めても協議が調わず又は協議がすること出来ないことを理由として右農地の賃貸借に関し市町村農地委員会の裁定を申請した場合に於て農地所有者に対し賃借人の為に賃借権の設定を命じ得べき権限あるも本件の如く農地の賃借人たる控訴人と貸主なる被控訴人との間に於て賃借権の有無に係争有るとき法令上之を裁定する権限はない、何となれば農地委員会は原則として裁判所の如く一般に権利の有無に付裁決する権限なくして単に法令に依り権限を附與せられたる事項に付てのみ之を裁定する権限あり、此の権限は特別の場合に農地委員会に認められた例外的のものなれば之を拡張せしめて耕作権の有無迄も裁定する権限有るべき道理がないからである。
惟うに沿革に徴するも不在地主又は在村地主の保有限度外の農地に付ては地主の不当取上げなる事実存する限り政府に於て遡及買収をなし得べきも在村地主の保有限度内の農地に付ては仮令斯かる事実有るとも遡及買収が出来ないから権衡上其の不当を調節する為農地委員会に右の如き権限を與えたのだ。
之を要するに農地委員会の賃借権の設定を為し得る権限は地主と小作人間に有効に締結せられある農地賃貸契約を地主が不当な手段又は甘言口実等を以て消滅せしめ農地を小作人より取り上げた場合に救済方法として認められた特別のものであつて本件の如く控訴人たる小作人が被控訴人なる地主の要求に應じ田地の利用を一時中止した隙に乘じ其の意思に依らず不法に田地を占有せられた場合地主は然らずと為し両者間に耕作権の有無が争はるるに至るときは前述の地主の耕作権不当取上げの場合と異なるを以て農地委員会は斯る場合前示法令に依り耕作権の有無を裁定する権限無きものと信ず。
従つて農地委員会の権限を不当に拡張し之を唯一の根拠として控訴人に不利な判決を為した原審の見解は不当だ。
第二点津名郡育波村農地委員会は昭和二十三年二月二十三日本件田地一畝十九歩に付上告人が耕作権を有する旨決定したことは原審認定の如く当事者間に争なき事実である。
而して仮に同農地委員会に於て原審認定の如く耕作権の有無を決定する権限あり、之に基き一旦本件田地の耕作権が上告人に有る旨決定した以上該決定は公の合議機関である農地委員会と云う行政官廰の判断であるから一度其の決定が確定し効力生ずるに於ては一事不再理の原則が行われて特に権限ある機関から再議に付せられた場合の外職権を以て自発的に取消得べき限りでない(新法学全集第四巻行政法総則二三二頁美濃部氏所説参照)。
若し仮に農地委員会と云う合議機関の自由裁量に依る右決定の実質的の確定力がないとするも職権を以て斯る決定を取消すには其の之を取消すに足る法律上の瑕疵、即ち事実認定の錯誤とか詐欺、強迫、賄賂等の不正手段とか内容の違法とかの事由がなくてはならぬ(同上行政法総則二三三頁美濃部氏所説)。
殊に本件の如く上告人に耕作権を設定する旨の決定は個人に利益を與えるものなれば行政官廰なる農地委員会は之に覇束せられ前述の如き事由なき限り猥に偏見を以て之を変更することが出来ないのは一般の通説である(現代法学全集第十四巻行政法総論二〇六頁野村氏所説及前掲美濃部氏所説等)。
本件に付按ずるに育波村農地委員会の本訴田地の耕作権が上告人にある旨の決定は多年上告人に於て右田地を耕作し居り之を被上告人に返還した事実の証拠がないことを根拠として為された法律上無瑕疵の決定である、従つて同農地委員会に於て右決定を変更するには之を変更するに足るだけの法律上の瑕疵あることを前提としなければならぬのに同委員会は昭和二十三年四月八日右田地の耕作権が上告人及被上告人の何れにあるやを審議する折当日同委員会に出席した被上告人に於て昭和二十年十月中上告人より右耕作権の返還を受けた旨の虚僞の陳述を無條件に信用し其の際欠席した上告人及其の他の関係人に眞否を確めずに農地委員会長正置慶一の威圧に屈し不法な議決を為し前の決定を被上告人の有利に変更せしめたのである。(第一審に提出した上告人の答弁書参照)従て右変更決定は無瑕疵な前決定を変更するに足る理由なくして変更したものなれば法律上適法な決定として効力を生ずる筈がない。故に斯る決定を唯一の根拠として本訴田地に為された仮処分を取消すべき事情の変更ありと認定した原判決は不当と信ず。
第三点原審は昭和二十三年四月一日上告人の申請により本訴田地に為された仮処分は同年二月二十三日付の育波村農地委員会の上告人が右田地に付耕作権を有する旨の決定に基き為されたこと当事者間に争なしと認定し之に弁論の全趣旨を綜合して右決定は同年四月八日同農地委員会に於て被上告人の陳情を容れ被上告人に有利に取消変更されたと判断した。
然れども右仮処分は上告人が前示田地を耕作し居りて之を被上告人に返還した事実ないと云う第三者の疏明書及び育波村農地委員会の右事実に符合する旨の決定書に基き為されたものであつて右決定を唯一の根拠として許されたものでないのみならず上告人が原審に提出した疏第一、二号証に依れば上告人は昭和二十年秋本訴田地に麦を蒔き同二十一年度之より麦を収穫後供出したる旨部落会長の証明が為され有る事実及び昭和二十一年度の麦供出完納後被上告人に於て上告人に訴言を構えて右田地を不法に奪取したること顕著である事実を認定し得る。
然るに被上告人が其の反証として原審に提出した甲第一号証の昭和二十三年四月八日作成に係る育波村農地委員会の決定には単に再審議を為し票決の結果本件田地の耕作権は被上告人岩崎精一にある旨決定すとの記載あるのみで何故前決定に事実認定の錯誤あるやを明にしないのみか被上告人に於て何故右田地の耕作権を上告人より返還を受けしや其の点を調査せずに漫然多数決の方法に依り前の決定を取消変更したこと夫れ自体で明白である。
又甲第二号証なる育波村長の証明書を以ては疏乙第一、二号証を否定する資料にならない。
然らば右の如く上告人提出の証拠に依り右変更決定は不当で其の効力を生ずる由ないのに拘らず原審は之を無視し上告人主張の右事実は虚僞であるかの如くに曲解し漫然不自然に弁論の全趣旨なる観念を取入れ右決定が有効なる旨判断したるは審理不盡の違法あるものと信ず。
第四点上告人は原審に於て本件田地の耕作権が上告人にある旨の疏明として疏乙第一、二号証を提出(原審に於ける口頭弁論調書参照)したのに拘らず原審は何故か此の事実を無視し判決の事実摘示にも之を記載せず従つて判決を為すに当りても右書証が眞正に成立したるや否やを確めずに単に被上告人提出の甲第一号証のみを以て本件田地の耕作権は被上告人にある旨認定し上告人に不利な判決を為した。
従つて原審判決は此の点に於ても同様審理不盡の違法あること明である。